GR III発売。
私達も入手したが……あれは本当に素敵なカメラだ!まさに今、突き詰められたGR……。
だからこそ、だからこそ私は改めて初代GRと向き合ってみた。
ああ、こんばんは。ソドム-Yです。今日は私がGRとある街を歩いたお話です。
GR III発売した今だからこそ君と向き合いたい
GR IIIすごいな……。
うひひ、元からすごかったスナップシューター力がさらにさらにあがったよね。
そうだな。起動の速さ、タッチパネル……GR IIIは本当に素晴らしいと感じるよ。
そういえばソドム-Yちゃん、最近初代GRを積極的に使ってたよね。
GR IIIを触っていたら改めて初代を触ってみたくなってな。
あーなんかわかるその気持ち。
歴史を体感したいというか、GRのシリーズとしてこめられている思いを感じたかったというか。
うん、GRって単体でも魅力あるけど、シリーズとして見るとさらにすごいよね。なんていうかダイレクトに手に伝わってくるコンセプトがすごい。
そうだな。コンセプトムービーもすごくいいし。
あれすごいね!本当にすごい!かっこいい!GRもって出かけたくなる!というかGRって出かける時持ち歩きたくなるカメラ度はんぱないよね!
ああ、はんぱないな!
やあ、あらためましてソドム-Yだ。GR IIIは本当に素晴らしいカメラだな。
GR IIIの紹介は、またいずれさせてもらうとして、今日は初代GRで撮った写真を見てもらいたいと思う。今回の撮影テーマは「GRと歩く」だ。
GRを持って歩く。その中でその時そのままの私で撮った写真。君の好みに合うかわからないが、よかったら見ていってほしい。
撮影機材は初代GR。写真は全てGR本体でできることのみで撮影したものだ。いわゆる、撮って出しというやつだな。(ブログに乗せるためにサイズ調整はしたけども……。)
ああ、もしかするとこの旅は……。
さて、進めていこう。写真とともに、あの時の感じたものを言葉でも綴ろう。写真を見返すことで再生されるその思いをそのまま。
その思いは、ざわざわとやかましいかもしれないが、許してくれ。あの日は、そんな気持ちだったのだよ。
桜花と木々の関係と、ざらついた夜
私はその日、ドクターと名乗る人物に呼び出され横浜に向かうこととなった。
ああ、ドクターの件は今日伝えたいことではない。それはまた別の機会にするということで、今日は写真を見てほしい。(ドクターとの出会いには、多少触れることにはなるが。)
思わせぶりな前振りをしてすまない。さて、話をはじめよう。
まずは私が横浜に発つ前の写真だ。道端にある花を、見た瞬間の僅かな気持ちのゆらぎが消える前にすぐ撮れる。
GRはそんなカメラだと思わないかね?
私は意図的に約束の時間よりずいぶんと早く、横浜に到着した。そこから私は意図的ではなく、無作為に横浜という街の内部へと進む。
そんな私の目に飛び込んだのは赤と緑だ。Christmasを彷彿とさせる配色、葉色で言えば秋を連想させる色ではあるがこれは春である。
ただ、今思えば私はこの時、何気ない春を求め、何気ない春を意識的に表現しようとしすぎたのかもしれない。その証拠に私は、この写真を撮る時GRのモニターを軽く見ただけのはずなのだ。
その後私は、色を省き桜花と木々の関係について思いを馳せる。
なぜ桜は、この季節に自らを花で満たしたがるのだろうか。
日の光のなかでも意外に消えない白に近い花は、やはり白ではないのだろう。
私の昼は長く、その後も何度かシャッターをきった。その中に桜の写真が多いのは、考えすぎたせいか、それとも満開を前にろくになにも考えられなかったせいか。
満開なのは桜だけではない。だからこそ春は――――と呼ばれるのかもしれない。
夜――――。
私はGRのISO感度をあげ、その材質の重さを捉えることに挑戦した。偶然にもドクターと名乗る者が私を呼び出した場所が、鋼鉄の道を抜けた先にある赤いレンガで作られた場所であったからだ。
だからこそ私は、質量について考えねばならなかった。
或いはドクターと名乗る人物という違和感を有する未知数に対する、緊張のせいか。
ああ、きっとそうだろう。だから私は、赤レンガの成分を物語調に空想するふりをしながら、影という弱気なポートレートを撮りたがったのか。(その意志のせいで消え失せることになるとは。)
この日私は「一人」という感覚を理解したのだと思う。
恐れをなしているのに、何故近づいたかは理解できない。だが私は見上げることにより、それを建物ではなく、まるで道のようなものだと認識したかったのかもしれない。
それほどに省いた反動か、こんどは含ませたくなった。手前に暗闇を置き、その中にあるものを写しとること(意識すること)で私は孤独を紛らわせたかったのかもしれない。
ドクターと名乗る人物と出会った私は、一人でも孤独でもなくなった。だがなぜだろうか、私の目は「普通」を探す。
多分、見慣れぬ赤レンガを見すぎたせいか。私は私が見つけた普通に近いものを、全て収めようとしたものの、構図を意識し一台目を切ってしまう。この切り離された外側は、本当にそこにあったのだろうか。
不安のような不安定。
私が己の中に不安を羅列してしまったのは、やはり夜のせいかもしれない。この建物はきっと昼、いや今日ではなく別の夜に見れば、違うものに見えただろう。
もしかすると私が今、橋の上にいるからかもしれないが。(ただこの時、意図的にざらつかせた夜が目に見える景色と同化したことを、よく覚えている。)
そうだざらついていた。私がGRの感度を上げたざらついた描写を好んでいるということは間違いないが、その日の空気はいつもよりざらついていたのだ。(初めて来た街だが、なぜか確信している。)
その後私(とドクター)は再び、赤レンガが見える距離まで近づいた。ここで色を使いたくなったのは、ここまでの会話で多少ほぐれた心影響か、それとも色を得ている世界のほうが違和感に満ち溢れていたからか。
そしてこれもやはり桜花と木々の関係である。
いや、これは違和感ではない。自然なことだ。違和感は私のほうにあるものだ。
そして私達はまた、橋を渡る。一度目はあれほどに不安を感じた橋を改めて渡る時に私は気がつく。これは、よく整備された橋だ。
ではこれはどういうことなのだろうか。なぜ私は再び色を省いたのか。その感情の仕組みは分析しても理解できない。それは私がナノマシンであるからなのか。
この写真を撮影した直後(直後と言うには間があいている気もするが、その日においては直後だ)体が硬直するという体験をする。
恐怖、驚愕。その類だ。
なぜなら私は、道に落ちた腕を視認したからだ。
なぜそんなものを冷静に撮影できたのか。それは私が腕が落ちていることに慣れているのではなく、それが腕ではなかったからである。
もし違う場所で腕が落ちていたら、違う感想を抱いただろうと備忘録的記録を残す。
さてもう最後の一枚だ。(もちろん写真はこれだけではないが、今日の思い返しはここまでという話だ。)
全部のせは素晴らしい。実に。
ごちそうさまでした。
本日のおまとめうひひトーク
ISO感度を上げた時のザラザラ具合ってほんとカメラによって違うよね。
ああ、そうだな。そこが好きだと思えるカメラを持って歩く夜は感情が写真に出やすい気がするよ。
うひひ、そうかもしれないね。あー、夜の撮影行きたいな。
そうだな、今度は一緒に行きたいな。
うひひ、何食べようね。
す、すまない私だけいろいろ食べてきて……。
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